日本テレマン協会のベートーヴェン (3・前篇)


 日本テレマン協会の「ベートーヴェン交響曲全曲&合唱幻想曲・荘厳ミサ曲」シリーズの第3夜(大阪・いずみホール)。プログラムは<交響曲第4番変ロ長調>と<第6番ヘ長調「田園」>。作曲当時の楽器・奏法・編成、そしてメトロノーム記号を踏まえての演奏。日本テレマン協会は、延原武春さんによって創設されたバロック・古典音楽の総合団体で、「テレマン室内管弦楽団」、「コレギウム・ムジクム・テレマン」、「バロック・コア・テレマン」などの演奏団体を抱え、関西を拠点に活動をしている。


ジャンル意識と<交響曲第6番>

 わたくしたちは楽曲の内実(編成や形式、楽章構成)によって「ジャンル」が形成されると強固に信じているふしがある。しかし、少なくともべートーヴェンの生きた19世紀の前半までは、楽曲の演奏される場所や機会、注文主といった音楽外の要素によってもジャンル意識は形作られていたと言ってよい。
 興味深い例をひとつ。ベートーヴェンは<交響曲第5番>と<第6番>の初演のプログラムを自作品だけで構成した。2つの交響曲のほかにアリアやピアノ協奏曲が演奏されたが、注目すべきは「ラテン語のテキストによる讃歌」という演目があること。これは<ミサ曲ハ長調>を指している。こんなまわりくどい表記にしたのも、当時、世俗的な催しで典礼音楽を演奏することが禁止されていたから。「ミサ曲」と言わず「ラテン語の讃歌」と言えば、当局の許可が下りるのだ。楽曲の内実は1音たりとも変わっていない。表記上、典礼用から世俗用へと看板を架け替えただけ。これで検閲官は「教会音楽ではなく世俗音楽だ」と判断した。こと左様に、当時の「ジャンル意識」は楽曲の内実だけではなく、音楽外の要素に多分に左右されていた。
 それでは、当時のジャンル意識の点から<第6番「田園」>を見てみよう。
 1808年12月22日、<交響曲第5番>と<第6番「田園」>は同時に初演された。この初演にいたるまでのベートーヴェンのキャリアは順風満帆とはいかなかったようだ。当時の作曲家にとっての成功とは第1に、教会音楽と劇音楽で名声を得ること。しかしベートヴェン、オラトリオ<オリーブ山のキリスト>は鳴かず飛ばず、オペラ<レオノーレ>は大失敗、<ミサ曲ハ長調>は注文主に酷評される有様。一方で、交響曲の大家としては地歩を固めつつあった。
 そんな彼が、教会音楽・劇音楽を得意分野の交響曲で表現してしまえ、と力技に訴えてもおかしくない。教会音楽・劇音楽と交響曲の器楽編成上の違い、それはトロンボーン(サックバット)の有無。当時、トロンボーンは教会音楽・劇音楽でしか用いられなかった。そこで彼は、この楽器を交響曲に使い、その響きを教会音楽・劇音楽と並ぶものにしようと考えたのではないか。その結果生まれたのが<第5番>と<第6番>と言えよう。ミサ曲やオペラ、オラトリオを5番・6番のどちらと結びつけるかは個々の聴き手の判断としても、トロンボーンの使用はそういう効果を言わずもがな、生み出してしまうのである。こういった点にも、ジャンルのゆらぎが生じていると言える。
 したがって<第6番>の聴き所は、トロンボーンが鳴り響く場面とそこにいたるプロセス。その場面にドラマ性や宗教性を(具象的ではないにしても)感じ取ることが出来れば、作曲家のもくろみは成功だ。
 前置きが長くなったが、当夜の<第6番>がわたくしの耳にはミサ曲に聴こえたことをもって、奏者のみなさんの健闘を讃えたい。トロンボーンの響きを伴った第4楽章から第5楽章にかけては、「クレド(われ信ず)」や「アニュス・デイ(神の子羊)」と聴き紛うサウンド。とくに第5楽章は、ミサの終曲、平和の讃歌「アニュス・デイ」に相応しい弛緩と昂揚、そして収斂。1808年フランス製のホルン(が奏でる純正長3度・完全5度の浮遊感)など、文字通りのオリジナル楽器が「ミサ曲効果」を演出した。
 「教会・劇場音楽と交響曲とをクロスジャンルさせて解釈し、その上でクラシカル楽器を用いるとこういう効果が得られる」。指揮者・延原の、そしてオーケストラ全員のそんなメッセージがしっかりと聴き取れた夜。思考が音楽に結晶化し、焦点の合った響きが満ちる。これがピリオド楽器演奏の真骨頂だ。


写真:ヴィーン楽友協会