長塚圭史は劇作家としてある地点に到達した(かもしれない)


阿佐ヶ谷スパイダース公演『失われた時間を求めて』
2008年5月10日(土) [期間:5月8日〜27日]
於・ベニサンピット
作・演出:長塚圭史/出演:中山祐一朗伊達暁長塚圭史奥菜恵


 バスケットボールのゲームで何度シュートを放っても失敗してしまう。私が「満足」するには、次の3つの選択肢しかない。第1、あの高さのあの位置にあるカゴへボールを叩き込めるよう、訓練を積む。第2、私(だけ)が得点を挙げられるように、ルールそのものを改変する。第3、中空にあるカゴにボールを入れることなんかに価値はなく、そこに私の「満足」があるはずない、と信じるようにする。
 第1の道を行くことが出来るのは、訓練に耐えうる気力や体力をもつ人間。第2の道を行くことが出来るのは、政治力や経済力がある人間。第3の道を行くのは、どんな力も持たず、価値基準そのものを転倒させてそれを信じ込むしかないほどに卑小な人間。その旗振り役は、僧侶(宗教者ほどの意)であり道徳教師であり社会的指導者だろう。
 こうして宗教や道徳や「われわれが信じる価値があると信じるもの」一般は、第3の道、つまり卑小な人間が何とかして「勝つ」(勝ったつもりになる)ための嘘であることが明らかになる。このことを知り、卑小な人間は「神も仏もありゃしない」というニヒリズム(虚無主義)に陥る。
 そんなニヒリズムに陥った弱きひとびとに、次段階で突きつけられる問い。「あなたは外部(すなわち宗教や道徳)に救いを求めないで、人生そのものを肯定できるか。あなたの人生が全く変わりなく何度も何度も繰り返すとしても、あなたは平気だろうか。」
 ニーチェが、そして長塚圭史が示そうとした答えは、「私は平気だ。というのも私は、意味のないこの人生を、それそのものとして肯定しているのだから」というものだろう。この問いと答えのうちに示されるのが「永遠回帰」の思想だ。
 『失われた時間を求めて』の綴りをみれば、即座にマルセル・プルーストが思い起こされる。もちろん彼の「円環的時間」という少し分かりにくい考え方が、この戯曲のモティーフにあることは明らかだ。しかしこの芝居に、より色濃く影を落とすのは、ニーチェの思想のうち「第2空間から第3空間への移行」、とりわけ「永遠回帰」の考え方だろう。
 枯れ葉舞う空間。三方に堀(側溝)を巡らせた真四角に近いステージ、その上にはベンチ、街灯とくずかご。堀には小さな橋が架かり、ステージと両袖・奥とを繋いでいる。長塚は、どことも知れぬ無限回廊を舞台に、ひとびとが第2空間、すなわちニヒリズムから第3空間、すなわち「永遠回帰=全き肯定」へと歩みを進める様子を「示す」。
 長塚がかの思想家を凌駕し、劇作家としてある地点に到達したと言えるのは、この「示し」のゆえである。ニヒリズムから永遠回帰への道筋を語れば、とたんに「語りこぼし」か「無駄語り」が生じてしまう。「語り」はつねに不足か過剰なのだ。しかし、示された(と感受される)ものは「正に当のもの」である可能性を秘めている。
 長塚が「正に当のもの」を示したのかは、検証しようがない。しかし、ニーチェが語ったけれど語りえなかった(過剰だった)ものを、「正に当のもの」として示した可能性がある点が、この芝居を「えもいわれぬもの」としている。
 この芝居にとって欠くべからざる場面は、来し方に虚無感を感じていた女が、吹っ切れた様子で落ち葉を拾い集めるシーンだ。ニーチェの第3空間を読み込む立場からすると、落ち葉は何の表象でもなく、ただ、落ち葉である。その落ち葉を落ち葉として拾い集める女は、すくなくともその嬉々とした拾い集めに際してだれとも協同しない。永遠回帰における全肯定はどこまでも孤独なことだ。そして孤独ながらも(孤独だから)光輝いている。
 この批評は、その「えもいわれぬ」様子を語ろうとしている点で、すでに失敗を余儀なくされている。だから、もしかすると、この批評(とおぼしきもの)は事後によまれるものではなく、事前にさらリと触れておくべき類いのものかもしれない。消化を助ける胃薬のようなもの。実際、消化するのは本人の胃にほかならないから。

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追記:上記の(ニーチェの思想を重ね合わせる)視点からすると、「宗教や道徳や『われわれが信じる価値があると信じるもの』一般は、卑小な人間が何とかして『勝つ』(勝ったつもりになる)ための嘘であること」(第1空間から第2空間への移行)を明らかにしたのが『イヌの日』であり『少女とガソリン』だったと言えましょう。
追々記:わたくし、いま(脱稿後2時間半)、気づきました。長塚圭史さんのご尊父が胃腸薬のコマーシャルに出演していることに。願わくば、この批評も「食べる前に飲」まれんことを。然り。