日本テレマン協会のベートーヴェン(2)


 今年、生誕百周年を迎えたヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮者, 1908-1989)。生誕何年という言い方は皮肉にも、通常、故人に対して用いられる。だから指揮者の100回目の誕生を祝うことと、彼の死を思うこととは同義と言えよう。カラヤンは20世紀後半、正確にはベルリン・フィルの常任指揮者となった1955年から亡くなる1989年までの間、クラシックファンの「耳」に大きな影響力を持ち続けた。僕は幸か不幸かその影響を免れる世代だが、カラヤンサウンドの「音楽聴」が身に付いて離れないファンも多くいることだろう。そんな指揮者の「影」は、没後19年のいまもなお厳然と残っている。
 それが垣間見られたのが、日本テレマン協会の「ベートーヴェン交響曲全曲&合唱幻想曲・荘厳ミサ曲」シリーズの第2夜(大阪・いずみホール)。プログラムは<交響曲第2番ニ長調>と<第5番ハ短調>。作曲当時の楽器・奏法・編成、そしてメトロノーム記号を踏まえての演奏だ。日本テレマン協会は、延原武春さんによって創設されたバロック・古典音楽の総合団体で、「テレマン室内管弦楽団」、「コレギウム・ムジクム・テレマン」、「バロック・コア・テレマン」などの演奏団体を抱え、関西を拠点に活動をしている。
 同第1夜(第1番&第3番<英雄>)での好演も記憶に新しい。情も理も通った演奏を期待しつつの第2回。なかなか明確な像を結ばない<第2番>に首を傾げる。とくに管楽器。演奏上のミスをどうこう言いたいのではない。目指すサウンドを取り違えていることを指摘したい。しばらく考え、当夜の2番はカラヤンサウンドになっていると思い至り、休憩時にテレマン協会の中野代表代行にお知らせ。ベートーヴェンと言えども<交響曲第2番>となると、実演に接する機会はそれほどない。となると、この楽曲のサウンドは録音で体験することとなる。その録音は概ねカラヤンのものであっておかしくない。というより、20世紀後半のモダン楽器によるあらかたの録音は、覇権を握ったカラヤンサウンドに右倣えをしてしまったのだから、当夜の管楽器奏者の多くにカラヤンサウンドが刷り込まれているということは充分にありうる。
 結果、慣れぬ<第2番>、安全運転、落としどころとしてのカラヤンサウンド、クラシカル楽器としての「音像」が曖昧、と悪循環に陥った。げに恐ろしきは習い性である。若い演奏家で構成される管楽器群。多少のミスには目をつぶれても、目指すところが分からず安全運転し、慣れたレーンをふわふわ走るような演奏にはシンパシーを抱けない。次回の<第4番>で奮起していただきたい。目指すサウンドを明確にしていただきたい。
 さて、そんな管楽器群に自分の持ち場を確認させたのが、延原さんの楽器紹介コーナー。<第5番>の演奏を前に、金管楽器コントラファゴットとピッコロを取り上げてモダン楽器との違いなどを解説してくれた。もちろん聴衆のための楽器紹介なのだが、当夜に限って言えば、奏者の目を覚ます効用があったと言える。このコーナーのおかげで「うわ、いま持っとるのクラシカル楽器やん」と気付いたのではなかろうか。
 そのおかげか、<第5番>はクラシカル楽器の響きを存分に味わえる出来映え。とくに第4楽章、50小節にも及ぶティンパニの同音連打を経てハ長調の主和音が鳴り響く冒頭には、こちらの目が覚まされた。思い切りの良い弦楽とともに(コンサートマスターのヒュー・ダニエルに拍手)、ぎゅっと詰まった圧力のある和音が響く。その中心にあるのがトロンボーンだ。19世紀初頭、トロンボーンはまだ教会音楽と一部の劇音楽のための楽器で、交響曲で使われることはなかった。その慣例を破ったのが<第5番>。当時の聴衆の驚きの一端を、聴き慣れた『運命』で経験できるのは希有なこと。当夜の「ドミソ」ほど記憶に残る三和音もそうそうなかろう。この「ドミソ」がこれほど印象に残るのも、第3楽章までの「抑圧のプラン」が忠実に実行されたから。当夜の<第5番>はサウンドの点でも形式の彫琢の点でも、ベートーヴェンが仕掛けた「熱狂のプラン」・「救済のプラン」を聴衆に伝えることに成功した。音が像を結ぶとは、こういうことだ。第3夜にも期待したい。


写真:ヴィーン楽友教会