第3回


 その後日本は、西洋の文物を積極的に取り入れるようになります。
 西洋音楽の受容の面で重要な出来事は、1879年(明治12年)に音楽取調掛が発足したこと。これは文部省が音楽教育機関として設置したもので、のちの東京音楽学校、現在の東京藝術大学音楽学部です。さて、この音楽取調掛にはバッハの作品を含むいくつかの楽譜が所蔵されていました。1つはバッハの『Compositionen fur Orgel, Band I』、もう1つは複数の作曲家による『Gavotte Album, Second Selection』です。
 また1899年(明治32年)の記録によると、東京音楽学校にはバッハの<Invention>、<Das Wohltemperierte Klavier>、<Englische Suiten>、 <Italienisches Konzert>、<Plaeludium und Fuga>なども所蔵されていたといいます[2]。
 この記録に先立つ1890年(明治23年)には、東京音楽学校の生徒によって、<ミサ曲ロ短調>のクレドの中から<Crucifixus>が演奏されました。来日していたフルート奏者・作曲家のテルシャクが「予想外の好成果」と述べるほど、この演奏は好演だったようです[3]。
 このように日本の音楽教育の現場では、その初期から教材としてバッハが用いられていたことが分かります。
 一方の出版界。1890年(明治23年)10月、前月創刊した『音楽雑誌』にバッハの紹介記事が掲載されました。これは日本における最も早いバッハ紹介記事だといえます。この紹介記事には、ラインケン訪問のエピソードも盛り込まれ、当時としては充実した内容でした。
 この「バッハ紹介」を機に、東京音楽学校における演奏会でも次第にバッハが取り上げられるようになります。幸田延と幸の姉妹による<2台のヴァイオリンのための協奏曲>BWV1043や、島崎赤太郎による<オルガン独奏のための協奏曲>、瀧廉太郎による<イタリア協奏曲>などがプログラムをにぎわせました[4]。
 また、同時期から海外への留学生が次々と生まれています。1889年(明治22年幸田延は、最初の音楽留学生としてボストンに留学し、翌年にはヴィーンへと移ります。彼女の妹である幸田幸は1900年(明治33年)、ベルリンへと留学しました。1901年(明治34年)には島崎赤太郎と瀧廉太郎がライプツィヒに渡ります。留学生らはヨーロッパ、とくにバッハ・ルネサンスが花開くベルリンやライプツィヒで、少なからぬバッハの伝統に触れたことでしょう。そして当時のドイツの「バッハ熱」を吸収して帰国したに違いありません。
 こうして明治30年代までに、日本におけるバッハの地位は重みを増していきます。その歴程はまさに、ドイツにおけるバッハ・ルネサンスと歩みを共にしていました。すなわち日本人はバッハを、当時の新たな波として吸収していたのです。その後、日本でも豊かなバッハの藝術が花開くことになります。この基礎を築いたのが、以上に述べた「出会い」というわけです。

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[2] 後藤暢子「日本におけるバッハの音楽?その受容史のための覚え書」『バッハ生誕300年』 所収、東京、1985。
[3] 「音楽雑誌」第1号、東京、1890年、4−8頁。
[4] 中村洪介「日本人のバッハ受容」『バッハ全集』第15巻 所収、小学館、1999年。


写真:メンデルズゾーンがライプツィヒ市に寄贈した「バッハ像」