『N響80年全記録』

佐野之彦『N響80年全記録』文藝春秋, 2007年

 毎朝ラジオを聴いていた我が家では、午前7時40分頃になると流れるモーツァルトの<ホルン協奏曲 第4番>が、登校時間の目安となっていた。これを皮切りに次々と西洋古典音楽に触れ、音楽評論家(などというもの)になってしまったことを考えれば、わたくしにとってラジオの役割は大きかったと言える。
 ことほど左様に、放送は我々の音楽体験に大きな影響を及ぼしている。したがって、日本唯一の公共放送局NHKの楽団が、多くの日本人の西洋音楽体験に重要な役割を果たしていることは想像に難くない。
 2006年、日本を代表するオーケストラ・NHK交響楽団は創立80周年を迎えた。本書は関係者の証言を元に、80年にわたり我々の音楽生活を支え続けるN響の歩みを、ときに精緻に、ときに情感豊かに描く。
 大正の末年に「新交響楽団」として産声を上げたNHK交響楽団の歴史は、一楽団史にとどまらない広がりを持つ。「今の学生オケにも劣る」という黎明期から、多くの本邦初演などを手がけ、技術的に世界トップクラスとなった同楽団の活動はそのまま、「日本西洋音楽演奏史」といっても過言ではない。また、近衛秀麿カラヤンデュトワら音楽家との共演は華麗な楽壇史と見ることも出来よう。トップランナーであるN響の運営は常に手探りで、その顛末は楽団運営史として興味深い。N響不遇の時期であった第二次大戦前後の様子は、社会と文化の関係を考える上で貴重な契機となっている。
 しかし何より重要なのは、N響の活動が日本人の西洋文化受容史そのものを体現している点だ。外国人指揮者との摩擦と相互理解、海外公演での苦労と成功は、西洋文化が数世紀かけて積み重ねてきた歴史を数十年で追体験しようとする日本人の挫折と成功とを投影している。
 N響は今後も演奏史・楽壇史・運営史を織り込みつつ、その楽団史を紡いでいくだろう。そして我々は、自らの個人史でそれを染めることが出来る。その意味で本書は、我々の個人史をそこに読み込んではじめて、真の織り模様を見せるのかもしれない。


初出:時事通信配信



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