第2回


 では19世紀から20世紀はじめにかけての日本を、バッハとの出会いという視点から眺めてみましょう。19世紀の禁教鎖国時代の日本でも、西洋音楽を耳にする機会はありました。たとえば1826年(文政9年)長崎から江戸へと赴く際、シーボルトは小型のピアノを携行し、江戸の知識人に演奏を披露したといいます[1]。このときシーボルトが何を演奏したかを知る術はありませんが、すでにこの時代、日本人は西洋音楽に触れることが可能となっていたわけです。とは言え、それが本格化するのは1858年(安政5年)の米英露蘭仏との修好通商条約締結後、あるいは1866年(慶應2年)の海外渡航解禁以後のことでしょう。
 日本とバッハとの出会いに関して、史資料により裏付けられる最も初期の例は1872年のものです。1871年、日本の新政府は、岩倉具視らを使節団として欧米12カ国へ派遣しました。その様子をまとめたのが久米邦武編纂の『特命全権大使米欧回覧実記』全100巻で、1878年明治11年)に刊行されています。そこに残っているのが次のような記録。1872年6月18,19日(明治5年5月13,14日旧暦)、使節団はボストンの「太平楽会」World Peace Jubileeに招待されました。これはアメリ音楽史上でも名高い国際音楽会で、1872年6月17日から7月4日まで開催されたといいます。一方、現在ボストン公立図書館と東京の久米美術館とに残る当日のプログラムによれば、6月18日の「英国の日」にはバッハ作曲のコラール<Was mein Gott will, das gscheh allzeit>が演奏されたとのこと。 これはカンタータBWV111の冒頭合唱、もしくは<マタイ受難曲>の第25曲です。
 以上のことから、記録上最も早いバッハと日本人との出会いが確認できます。この出会いに際して『回覧実記』の記者は、バッハの音楽をさして「雲でさえ立ち止まって耳を傾けるほど優れた歌声だ」と記録しています。出会った当初から日本人は、バッハの音楽に魅了されたのです。

[1] 宇田川榕菴「大西楽律考」、『自叙年譜』n. d.

写真:ライプツィヒ・トーマス教会前のバッハ像