『上海オーケストラ物語』

榎本泰子『上海オーケストラ物語』春秋社, 2006年

 中国・上海を流れる黄浦江の東岸は、電波塔や高層ビル群に彩られた未来的な風景よって、同国の新たな時代を象徴している。一方、西岸には、旧来の上海のイメージを色濃く残す西洋風の街並みが広がっている。ヨーロッパ人がこの地に「主」として君臨していたころの名残だ。
 1845年に生まれた疑似ヨーロッパ「上海租界」には当時、西洋音楽の粋が大きく花開いていた。従来語られることの少なかったこの地域の音楽文化を、著者は史料の強固な裏付けによって描き、外国人音楽家や聴衆にとって上海とは何だったのかを問う。
 本書が精緻に描き出すのは、時代によって異なった姿を見せる、租界独自の音楽文化である。初期、母国を遠く離れたヨーロッパ人は、本国以上に徹底して西洋音楽に取り組んだ。劇場を建て、楽器を手に入れ、音楽家を雇う。租界住民が委員会を作りオーケストラをマネジメントする。娯楽のためであることはもちろんだが、とりわけ重要な動機は、彼らが母国を離れてもなお、自分たちの文化の基盤を純粋な形で守ろうとしたことだ。西洋人の西洋人による西洋音楽文化の理想郷として、上海は位置づけられている。
 それが次第に、東西音楽文化を融合させる場へと変貌していく。五四運動以来の独立機運により、中国人住民の発言力が高まるにつれ、租界当局も彼らを無視できなくなった。このころ、中国人が委員会に迎え入れられたほか、研修生としてオーケストラへの入団を果たしたものもいる。ついには中国音楽や中国人作曲家の作品が演奏会で取り上げられるようになり、上海オーケストラの独自性、すなわち豊かな国際性が強まる結果となった。
 本書の淡々とした語り口に物足りなさを感じる向きもあるかもしれない。しかしそこには、史料に忠実である著者の姿勢が透けて見える。史料が奏でる豊かな「メロディー」に、派手な「フォルテ」や「ピアノ」は無用ということだろう。それは、楽譜に忠実だった指揮者、上海租界と同時代を生きたトスカニーニの響きを彷彿(ほうふつ)とさせる。


初出:時事通信配信


.