ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(7)

 バッハ音楽祭のコンサートだが、プログラムはすべてヴィヴァルディの書いた作品......。バッハのことをよくご存知の方はすぐにピンとくるだろう。
 バッハはヴァイマルにいた1713年ごろ、アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)を始めとするヴェネツィア楽派の協奏曲を深く学んだ。当時のバッハの雇い主のひとりヨハン・エルンスト公子は、たいそうな音楽好きだった。オランダに留学していたが、17歳になった1713年にヴァイマルに戻る。公子は帰国の途中に立ち寄ったアムステルダムで大量の楽譜を手に入れるとともに、興味深いオルガン演奏に出会った。それは当時、流行っていたイタリア風協奏曲をオルガン1台で演奏するもの。帰国した公子はお抱えだったバッハらに、アムステルダムと同様の編曲を命じる。
 この編曲を通してバッハは、トレッリやマルチェロ兄弟、とりわけヴィヴァルディの協奏曲のスタイルを学んだ。注文ありきの仕事だったとはいえ、この編曲がバッハにとって、願ってもないイタリア学習の機会となったことは言うまでもない。

 バッハのこうしたヴィヴァルディ体験を、演奏会として再現したのがアンドレア・マルコン率いるラ・チェトラ・バロックオーケストラと、オルガニストのイェルク・ハルベクだ(6月17日 於トーマス教会)。ヴィヴァルディの弦楽合奏ための原曲と、バッハのオルガンのための編曲とを交互に並べる。最後はヴィヴァルディの作品3-10。この作品をバッハは、4台のチェンバロのための協奏曲(BWV1065)として編曲している。この編曲の演奏はなし。BWV1065に加え、チェンバロ1台のために編曲した他者の協奏曲がいくつかある(BWV972-987)ので、続編への含みを残した格好だ。

 演奏がすごかった。とくにヴァイオリン独奏のシラノシアン。冒頭は《グロッソモーグル》原曲だったが、のっけから驚かされる。ソロ声部は始めに重音奏法を使って、ハーモニーとメロディーとを同時に弾く。このハーモ二ー部分は正確にテンポを刻むのに、メロディー部分は自由にルバートする。このズレが音楽的な刺激を大いにもたらす。なんでこんなことが可能なのか分からない。ハーモニーのテンポを正確にしようとすれば、メロディーのテンポも正確になるはずだし、メロディーをルバートするためにはハーモニーの正確さを犠牲にしなければならないはず。弾いている弓は1本なのだからそれが道理だ。だが、実際にはズレたり一致したりする。そのズレ幅が緊張感の移り変わりを作り出す。見事というほかない。
 独奏を含む弦楽合奏陣は、雑音を含むあらゆる音を表現手段として使う。つまり多彩すぎるほど多彩な「子音」を楽器から引き出しているということ。フォルテの時には力強い子音、ピアノの時には慎ましやかな子音。これができれば、音量を変えなくとも、子音の変化だけでフォルテとピアノとの対比を表現できる。この子音に、細部まで慎重に打たれた句読点、弓の上下運動の力加減の差異を掛け合わせる。すると、推進力にあふれ、滑舌の良い、方向性のはっきりとした音楽が流れ出る。
 こうした演奏の手綱を、通奏低音陣がしっかりと引いている。そこに本格派の身上がうかがえる。たとえばヴィヴァルディの作品3-10、最後のアレグロ。同じ音形を高さを変えながら(すなわち和声を変化させながら)繰り返すゼクエンツは、いわば同じ台詞のはずなのに、そのニュアンスやそれを発するときの顔の表情が刻一刻と変化していく。それを司っているのが通奏低音。支えは万全だ。

 一方のオルガンのハルベクは正直、危なっかしいところが多かった。地口を弄するようなところがあるというべきか。《グロッソモーグル》を受けての編曲BWV594の演奏では、子音を作りだせないオルガンの欠点をカバーすべく、間合いを取ることで音楽的な時間を作り出そうとするが大失敗。適度な間はアートになるが、彼の「繊細さを欠いた大胆な間」は、単なる「間抜け」であって、音楽性のかけらもない。ルバートの基本は「盗んだテンポ(速くした/遅くした速度)は必ず返す(平均速度を取り戻すために遅くする/速くする)」こと。盗んだら盗みっぱなしの速度変化は、酔っ払い運転のようなものだ。こういったところに質の悪い“即興性”を発揮するのに、いざ第2楽章「レチタティーヴォアダージョ」になると、楽譜をなぞるだけの弾きぶり。まったく納得のいくものではない。
 だが、BWV596は別人が弾いているかのようだった。原曲はヴィヴァルディの作品3-11。先ほどまでひどかった音栓の選択が適切で、声部の個性が生きる。緩徐楽章での装飾も洗練されていて、情緒を深くえぐる。保続音とその解決とのさばき方が、オルガンなる楽器の特性を浮き彫りにしている。このくらい磨きをかけてから他の作品も披露してほしいところだ。

 いずれにせよ、コンサートはとても刺激的。演奏者の美意識や見識、技術が、個々の作品
とプログラム全体の輪郭をくっきりと描き出した。2011年来、マルコンのバッハ音楽祭の演奏に期待はずれはない。またライプツィヒで会いたい音楽家の1人



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(6)

 今年は変わり種の催しが多かった。ルイ・マルシャン対バッハの鍵盤対決を創造的に再現したコンサート(6月16日 於シュタットバート)には、トン・コープマンアンドレアス・シュタイアーが出演した。この演奏会は、1717年の秋にドレスデンで予定されながら、マルシャンの敵前逃亡でお流れになった競い合いを下敷きとする。
 ちなみにマルシャン役をコープマンが、バッハ役をシュタイアーが担当した。オランダ語の「コープマン」は「商人」を意味している。ドイツ語にすると「カウフマン」。フランス語にすると「マルシャン」というわけだ。
 プログラムには舞曲が並ぶ。マルシャンとバッハの舞曲作品を、その曲種ごとに対決させる。最後は「ハッピーエンド」として、バッハの2台のチェンバロのための協奏曲ハ長調 BWV1061a をふたりで弾いて御開きとなった。演奏はマルシャン役の“悪ふざけ”(褒めてる)が楽しく、そのおかげでバッハ役の“真面目さ”が浮き彫りに。豪華な遊びに興ずる一夜。

 6月20日は街中のヴァリエテ劇場(寄席)クプファーザールで、《狩のカンタータ》BWV208と《羊飼いのカンタータ》BWV249aのオペラ風公演。いずれも貴族の誕生日を祝賀する音楽で、いわばお誕生日会の出し物だ。主人公を持ち上げ、楽しく話を進める。合間合間に器楽による《ブランデンブルク協奏曲》第1番の各楽章を挟み込み、“狩”や“羊飼い”の舞台となる田園風景を音楽で調える。
 会場となった寄席の平土間に、歌舞伎の花道のような細長い舞台を設置。舞台の中心に置かれたテーブルの下から登場人物が出てくる。クロスをめくって人が出たり入ったりするわけだ。歌手たちは18世紀風のコスチューム。客席はその舞台を四方から取り囲む。
 演奏は堅実で、18世紀語法を踏まえた器楽奏者(カッチュナー指揮ラオテン・カンパニー・べルリン)に、芸達者な歌手が揃う。場所の雰囲気と演目の性格の平仄があっている上、演奏もなかなかのもので、拍手も大きかった。

 ルドルフ・ルッツは即興演奏を得意とする鍵盤楽器奏者。過去のバッハ音楽祭でもその腕前を披露している。このたびは大学教会で、バッハらのコラール変奏曲にみずからの即興演奏を加えて、ルター派讃美歌の世界と、それに基づくオルガン音楽の世界をともに紹介する(6月22日)。
 興味深いのは、題材となるコラールを聴衆が一緒に歌うこと。ルター派の礼拝を模している。滋味深い原曲のコラール、刺激的なバッハらの作品、それを当意即妙に弾いていくオルガニスト、そこにさらに華を添える即興演奏。こういう演奏会はルッツほどのタレントがいなければ成立しない。往時のバッハもこうであったかと思わされる。一緒に歌うことで会場の一体感も大きく、ルターがコラールを礼拝式の中に制定した意味を、改めて考えさせられた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(5)

 「枯れる」といった言葉とは無縁の活動を続けるヘルベルト・ブロムシュテット。このたびは古巣のゲヴァントハウス管弦楽団と、メンデルスゾーンを中心としたプログラムでライプツィヒに“帰還”した(6月15日 於コングレスハレ)。
  前半のバッハの協奏曲2曲は言及に値しない。演奏、とりわけ独奏者のそれは、あらゆる場面で均一な音を目指す20世紀後半の心太スタイル。強弱以外に特段の表現法はない。丁寧な演奏だが、丁寧さがつねに音楽に寄与するかというと、そうではない。そうではないところがアートのおもしろさだ。全体のサウンドも小編成とは言え、まごうかたなきモダン演奏なのだが、モダンのふくよかな響きも、古楽の溌剌とした語り口もない。
 一方、後半、メンデルスゾーンの第3交響曲スコットランド》になるとすっかり様子が変わった。ブロムシュテットは平時より、いくぶんゆったりとしたテンポで曲を始める。それこそ「枯れた」のかと思わされたが、さにあらず。会場のコングレスハレはきわめて乾いた音響で、典型的な多目的ホールの響き。そこではたっぷりと音楽を進めないと、会場はおろか作品までカラカラになってしまう。場所を踏まえての差配だ。それが当然、功を奏する。古典的な装いの中にメンデルスゾーンが仕組む、隠し味の利いたハーモニー進行が、きちっと客席に届く。その緊張と緩和の行き来が、螺旋状に聴き手のヴォルテージを上げていき、われわれをフィナーレの「戦」へといざなう。その演奏上の構成が見事だ。
 具体的にはパート内精度、つまり音程・タイミング・弓や息の力加減がよく整っているので、和音が収まるところに収まりと、それが続くことにより和声進行の弾力性が高まる。その進行が緊張と緩和の交錯、つまり段落感の形成につながり、その積み重ねがうねるように(螺旋状に上昇して)クライマックスを築くというわけ。
 ブロムシュテットらしい明晰な演奏。やはりこの人に「枯れる」なんて言葉は似合わない。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(4)

 アンナ・マクダレーナ・ヴィルケはバッハの2番目の妻。歌手として活躍していた。故郷のヴァイセンフェルスでデビューして、1721年にはケーテンの宮廷音楽家に。まもなく当地の宮廷楽長だったバッハと結婚。以後、妻・母・写譜家などの役割を追うこととなる。
 「宮廷女性歌手」と題されたこのたびの演奏会は、そんなマクダレーナの音楽家としての側面に光を当てたプログラム。《アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳》などに基づき、彼女が歌ったり鍵盤楽器で弾いたりしたであろう作品を並べる。合間には企画者のナレーションも入って、演奏会は立体的に進む。
 バッハは「今の私の妻はなかなかよい澄んだ声で歌う」と妻を評した。今回の主役ヌリア・リアルは、そんな声を想像させる素晴らしいソプラノだ。彼女はカタルーニャ出身。すべての息を100%のエネルギー効率で声にできるまれに見る逸材で、素直な発声と技術とで歌を表現し尽くす。明るくクリアな声色を背景に、ときおりそこに翳りとなる色彩を加える。テーマにふさわしい人選だ。
 とくにバッハのカンタータ《私は満ち足りています》BWV82はとても素敵な演奏だった。シメオン老人が赤ん坊のイエスと出会い、救い主にあった今、満足して眠りにつける(この世を離れることができる)と歌う作品。バス独唱用だったこの曲にバッハは、ソプラノ稿も残した。
 これをリアルが歌うと、甘美な死の甘美さは増し、安らかに眠る、という言葉の本当の意味が伝わってくるように聴こえる。子守唄の境地といってもよいかもしれない。ここに、歌手・筆写者・信仰者・母といったマクダレーナの多様な姿が何重にも映し出されている。
 テーマの興味深さ、プログラムの組み立ての奥深さ、歌手の水準の高さ、プレゼンテーションの楽しさの歯車がしっかりと噛み合ったコンサート。街のヴァリエテ(寄席・演芸場)クプファーザールを会場としたのも、洒落ていて好もしかった。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(3)

 ライプツィヒ市は毎年、バッハ演奏に功績のあった人物や団体に、バッハメダルを贈呈している。これまでにレオンハルトガーディナーアーノンクール、コープマン、ヘレヴェッヘブロムシュテット鈴木雅明ベルリン古楽アカデミー、ラインハルト・ゲーベルらが受賞した。
 このたび市は、バス歌手のクラウス・メルテンスに、2019年のメダルを贈ることを決めた。6月16日、その授賞式兼演奏会に行く。場所はライプツィヒ大学礼拝堂パウロ教会。
 「あの日のことは忘れません。家に帰ったらオーバービュルガーマイスター(市長)からの知らせが届いていました。バッハメダルを頂戴できるとのことでした。この受賞はささやかな私の歌い手人生のハイライトです。」
 こう答礼の言葉を述べたメルテンス。40年来の友人であり、今般、バッハアルヒーフの会長に就任したトン・コープマンも祝辞を述べ、大いにその功績をたたえた。
 メルテンスの歌はとても不思議だ。その音楽性の点で非の打ち所がないほどに優れているにもかかわらず、ドイツ語の詩を持つ曲を歌うときには、その歌全体が言語の発話として聴こえてくる。すばらしい歌(音楽)とドイツ語(言葉)とが、完全に平仄を合わせるのだ。「ドイツ語の歌」であることを大きく超えて、「純化したドイツ語」の域に達しているようにさえ思われる。
 こうしたすばらしいバスが、バッハ演奏を支えてきたことは疑う余地のないことだ。近年まれに見るほど妥当なバッハメダル授与式に参加できた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(2)

 ライプツィヒ・バッハ音楽祭には若手のための演奏会枠がある。当地のバッハ国際コンクールを始め、各地の国際コンクールを勝ち抜いた若い音楽家のための“ご褒美コンサート”だ。
 6月15日、旧取引所に登場したのはヴァイオリンのマリア・ヴロスチョスカ(Maria Włoszczowska)。2018年のライプツィヒ・バッハ国際コンクール、ヴァイオリン部門を制した。プログラムにはコレッリ、バッハ、ルクレールの名前が並ぶ。
 コレッリソナタ作品5-3は、旋律装飾を前提とした、いわば“骨格”作品。演奏者が即興性を発揮して曲を完成させる。その装飾の全体構成がよい。ヘミオラを伴う大きな終止に向けて徐々に装飾音を増やしていき、一旦リセット、また終止に向けて装飾を増やし、局所的にはギザギザのグラフを描きながら、全体としては右肩上がりに装飾が厚くなっていく。螺旋状に増えていくと言ってもよい。これはバッハ自身が弟子に教えていた方法だ。細部の装飾音形がもっと洒落たものになれば、この人はイタリア式装飾の名手になれるかもしれない。
 バッハの無伴奏ソナタ第2番とチェンバロ付きのハ短調ソナタに移ると、構成感の弱さが前に出てしまった。楽譜の緻密な分析の結果ではなく、楽譜から個人的に得た感興のほうを優先して表現する。というか、ほぼ全体がそれに占められる。バッハは、若い音楽家が感じるままに演奏して太刀打ちできるほど、作品を安易に書かない。
 だから、彼女の得た感興と作品のキャクターとが( た ま さ か )一致したルクレールソナタ作品9-8は、据わりのよい演奏になった。アンダンテでは楽器の音域の違いによる音色差を生かして、対話構造を浮き彫りにしたりと、その手腕も冴える。この曲の最終楽章はシャコンヌ。激しい楽想の後の浮遊感のある音色には、バロックらしい色彩がある。バッハのシャコンヌではなくて、ルクレールシャコンヌで締めたのもおしゃれだ。
 表現したい感興がしかとあって、それを音楽表現として表に出す。今のところ彼女は感興のほうが大きく、しかもそれが個人的な“感傷”に留まっている。勉強や表現方法の開拓がまだ追いついていないわけだ。ただし、表現意欲が人並外れて強いことは確か。技術をつけることも勉強を重ねることも後からできる。表現意欲がつよいことを大きく評価しての一等賞だったのだろうと思わされた。



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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2019(1)

 バッハが後半生を過ごしたドイツ中部ライプツィヒ。この街で6月14日(金)、恒例のバッハ音楽祭が始まった。会場は市内のバッハ史跡など。今年は「宮廷音楽家バッハ」をテーマに、23日までの10日間、約160の公演で大作曲家の仕事を振り返る。

 オープニングの式典とコンサートは例年通り、トーマス教会でトーマス合唱団の歌声に乗せて執り行われた。真面目だが音楽的能力が圧倒的に足りないトーマスカントルの指揮と、一所懸命だが上手とは言えない“天使の歌声”、そして本来は見事な仕事をするはずのフライブルクバロックオーケストラによる弛緩したルーティンワークのおかげで、(これも例年通り)演奏は言及に値しない。ちなみにプログラムは、バッハのオルガンのための《幻想曲》ト長調 BWV572、シャルパンティエの《テ・デウム》ニ長調、バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068、同じくカンタータ《笑いは我らの口に満ち》BWV110。

 音楽祭の真のスタートは、20時からニコライ教会で行われた演奏会と言ってよい。ヴィオール奏者ジョルディ・サヴァール率いるル・コンセール・ナシオンが、バッハの《音楽の捧げもの》BWV1079、管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067を披露した。「宮廷音楽家バッハ」のテーマに沿って、ベルリンのプロイセン宮廷とゆかりの深い《音楽の捧げもの》と、同じくプロイセン宮廷との関係が取りざたされる(エマヌエルの就職用、マルティン・ゲック)管弦楽組曲第2番とを並べる、ベルリン・プログラム。
 ベテラン演奏家たちの音楽的基礎体力がずば抜けている。どんなに速い楽章でも旋律に句読点を打って区切りをつけ、まとまりを細かく設定することで、複雑に絡み合う声部を交通整理する。フラウト・トラヴェルソのマルク・アンタイもその息づかいで、弦楽器の弓の上下を思わせる音の力動を笛から引き出す。
 とりわけ興味深いのは、アンサンブルが絶妙なブロークン・コーンソートだったこと。フラウト・トラヴェルソ、第1・第2ヴァイオリン、ヴィオール、チェロ、コントラバスチェンバロヴァイオリン属の土台の上に、笛とヴィオールが乗ってくるので、各パートの音色の構成が絶妙に個性的になる。それが前半の《音楽の捧げもの》では各声部のキャラクターを描き分ける絵筆となったし、後半の管弦楽組曲では本来ヴィオラのパートをヴィオールで演奏するので、その浮遊感のある音色で内声が浮き立ち、より立体的な響きになった。
 職人性の透徹したこうした仕事に接すると、とても清々しい気分になる。その気分のまま、夜中はマルクト広場の野外コンサートへ。美味しく飲んで(炭酸水を)帰宅。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(7)

 長身で手足が長く、その立ち居振舞いに素養を感じる。それもそのはずで、アルトのユリア・ベーメは演劇畑の出身。芝居の勉強を終えてから声楽の専門教育を受けた。なぜ転向したかは定かではないが、その声、コントラルトもいけるのではないかと思わせるふくよかで、それでいて芯のある声を聴いた音楽家が、スカウトしたのではないか、と勝手に想像している。そう思わせるほど、立派な声帯の持ち主。
 このたびは「第2の女性」と題した演奏会で、オペラの脇を固める役柄にスポットライトをあてる(6月8日 於レオポルディーナ)。プログラムに並ぶ名前はヘンデル、ヴィヴァルディ、ハッセ。一騎当千のオペラ作家ばかりだ。
 声は先述の通りとても立派。コントラルトの名歌手ナタリー・シュトゥッツマンと並ぶ恰幅の良い声だが、シュトゥッツマンがきわめて内向的な声色であるのに対し、ベーメはとても外向的で曇りのないを発声をする。だから、とてもよく言葉が聴こえる。これが個性の光るところ。音色の幅はそれほど広くない。息の細さ太さ、それを太いほうへ大胆に、細いほうへ精緻にコントロールし、そこに息の勢いの差異を手段として加えて表現の基礎とする。
 さらに先述の通り、演劇で培った「身振りのアート」が歌の味方をする。総合的な表現力が非常に高い逸材で、このアルトにライプツィヒ・バッハ音楽祭ですぐに再会できるのは、とても嬉しいことだ。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(6)

 イタリア・ピアチェンツァで学んだメゾ・ソプラノ、ジュゼッピーナ・ブリデッリが6月9日、音楽祭3日目のフュージョン系公演に引き続きステージに上がる。今度はソロの舞台だ。前公演で「おっ!」と思わされた歌い手。さすが有能な主催者だけあって、ブリデッリひとりの舞台も用意していた。
 「ヘンデルとポルポラのオペラにおける女性史」とは、まるで論文のようなタイトルだが、プログラム自体は聴きやすいもの。とはいえやはり、公演全体には生真面目な雰囲気が漂う。歌い手の個性がそうさせるのだろう。
 ブリデッリの基本姿勢はこうだ。声色は内向と外向のふたつ。そこにヴィブラートの多寡を掛け合わせて対比やグラデーションを作る。たとえばポルポラのアリア《海の神よ Nume che reggi ’l mare》。ダ・カーポアリアの前半をノンヴィブラートの外向的な声で、後半をヴィブラート付きの内向的な声で、ダ・カーポをノンヴィブラートの外向的な声で装飾を施して歌う。
 それほど複雑なことをしているわけでないのだが、これだけの工夫でも、作品世界の輪郭ははっきりするのだから、大したものだ。まだまだ手数自体は少ない。ただ工夫を惜しまぬ心意気がある。勉強と場数の量で次のステップに進んで欲しい。またヘンデル音楽祭で会いたい歌手のひとり。



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ハレ・ヘンデル音楽祭2019(5)

 歌い手にスポットライトを当てて音楽を楽しむ。たくさんの目と耳が一点に集中する。聴き手の期待感は大きい。舞台に立つ主役の緊張感も大きかろう。そんなステージで成果を上げた3人の歌い手を紹介。

 カリナ・ゴーヴァンはカナダ出身のソプラノ。バロック・オペラへの出演経験が豊富だが、古楽系とは一線を画す極太の美声。まるでワーグナー歌いのようだ。このゴーヴァンが6月10日、ハレ大学の講堂でリサイタル。管弦楽はジュリアン・ショーヴァン率いるラ・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュが担当した。
 「狂乱」と題された通り、演奏会のプログラムは起伏の激しいジェットコースターのような設え。ヘンデルを始め、カイザー、グラウプナー、テレマンスカルラッティ(父)、ヴィヴァルディ、そしてラモーの名前が並ぶ。詩の言語も独伊仏英と色とりどりだ。
 ゴーヴァンは息の太さ細さを自在に操り、そこに息の速度を掛け合わせて基本表現とする。つまり「息深め x 息速め」「息深め x 息遅め」「息浅め x 息速め」「息浅め x 息遅め」の4通りを柱に、歌の詩世界を浮き彫りにするわけだ。息が浅くても声がスカスカにならないのは、もとが極太系だから。天賦の才を活かしている。
 大いに拍手を誘ったのは、深く速い息で歌う劇的で急速なアリアだが、浅く遅い息で歌うゆったりとした作品のほうが、表現に奥行きを感じさせる。とりわけ母国語のひとつ、英語で歌ったヘンデルの《太陽は忘れるかしら? Will the sun forget to streak》がすばらしい。余分な脂肪を取り去った声を、落ち着いた息づかいで送り出す。ヤハウェの威光を見聞きし、太陽神への信仰に揺らぎが生じるさまを、黄昏時の風情と重ね合わせる。その、女王の弱さや揺らぎが、軽めの声を丁寧に紡ぎ出す歌い方によって際立った。(つづく)



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