上田泰史『パリのサロンと音楽家たち』

◇上田泰史『パリのサロンと音楽家たち』カワイ出版, 2018年

 昨年、茶の湯の大規模な展覧会があった。墨跡や絵画、金工や漆工、陶磁器など、すぐれた工芸品の数々が展示室に並ぶ。ガラスケースの向こうにある展示物はかつて、茶のもてなしに使われた。あの一碗を手にとり茶を喫する心持ちはどのようなものか。茶室はいかなる設えか、床の掛物は何か、釜はどんな肌合いか、そもそも茶を点てたのは誰か。
 音楽にそういう想念を抱くこともある。いま聴いているこの作品は当時、どんな環境で鳴り響いていたのか。この書物は史料を駆使して、そうした思いに実際の輪郭を与える。舞台は19世紀前半のパリのサロン。亭主が客をもてなす場だ。さまざまな美術品や調度が部屋を埋め、食事や酒が供される。音楽はそのもてなしの重要な一部だった。著者はこのサロンの実態、つまりその立地、亭主や客の属性、美術品や調度の趣味、音楽の種類やその演奏の様子を、一体のものとして描き出す。
 本書は2部構成をとる。第6章までの前半は、パリ各地区の文化的な地勢、サロン主宰者の階層と音楽家の地位など。話が進むほどに街、地区、特定の集合住宅と、画角が狭まっていく。第7章から第12章までの後半は範囲がさらに狭まり、特定のサロン、パリ音楽院教授・ヅィメルマンの夜会の様子を描写する。
 興味深いのはヅィメルマン家が、18世紀前半のパリのサロンの典型例ではないという点だ。つまり読者の視点は徐々に、特殊なほうへと誘導される。それに反比例して、登場人物は無名の人ばかりになるところが面白い。ショパンやリストといった名前は中景に退き、必ずしも有名でない多くの音楽家が前景にせり出してくる。こうした相補的なダイナミクスによって著者は、天才列伝としての西洋音楽史にアンチテーゼを突きつける。
 こう紹介するとこの本を、難しい学術書のように感じる向きもあろう。その実態は、当時の社交界を活写するノンフィクション。19世紀西欧文化の入門にもふさわしい。


初出:モーストリー・クラシック 2018年7月号





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ヤマハのサイトに出開帳

ヤマハのサイト「Web 音遊人」(ウェブミュージン)に寄稿しました。
バッハの命日に東京・ヤマハホールで行われた、鈴木優人(チェンバロ&指揮)とバッハ・コレギウム・ジャパンBCJ, 管弦楽)による演奏会のレポートです。プログラムはバッハのチェンバロ協奏曲一色。オーボエ通奏低音の活躍が光る一夜でした!

◇音楽ライターの眼「 “失われたコーヒーハウス” での演奏を追体験◇鈴木優人&バッハ・コレギウム・ジャパン◇バッハ チェンバロ協奏曲全曲録音プロジェクトVol.1






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都響第855回定期演奏会B

東京都交響楽団第855回定期演奏会Bシリーズ◇2018年5月22日 於サントリーホール

 指揮者の下野竜也が、ふたりのユダヤ系創作家の作家性を前面に押し出したプログラムをおくる。
 ひとりはメンデルスゾーン。この作曲家の交響曲スコットランド》は韻律のアートだ。冒頭の長短短の韻律を短短長に組み替えたり、短長長に変化させたりしながら、曲全体を束ねるかすがいとして利用し、終楽章のコーダで長短短へと回帰する。これをオーケストラが丁寧にすくいとった。また音色転換が和声の緊張と緩和の行き来を描く。その行き来が場面の移り変わりを推し進める力となり、旋律美を支える柱となった。
 もうひとりはボブ・ディラン。コリリアーノの管弦楽付き歌曲《ミスター・タンブリンマン ― ボブ・ディランの七つの詩》の日本初演だ。音楽はアリア風と朗唱風とが交互する。歌手(ヒラ・プリットマン)の声は楽譜の指示通り音響機器で増幅済み。朗唱での言葉は明瞭に聞こえるが、アリアでの声は管弦楽にかき消されることもある。これは創作上、狙ってかき消していると見るべきだろう。そこに逆説的に表現の中心がある。その言葉に耳をそばだたせる効果として、はたまた、本当に大切なことは隠しておくべきという信念の現れとして。当を得た日本初演だった。


初出:音楽現代 2018年7月号





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アヴデーエワ「バッハ作品集」

◇J・S・バッハ:イギリス組曲, トッカータ ニ長調, フランス風序曲 ◇ ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)〔KKC5851〕

アヴデーエワの弾くバッハ作品集。これまでさまざまな作曲家の作品を組み合わせて録音を作ってきただけに、バッハひとりを特集するのは少し異例だ。そうした意気込みは演奏にも現れていて、とりわけ《フランス風序曲》の立体的な表現が素晴らしい。それを担保するのが、弦楽器の弓の上下を思わせる音運び。上げ弓と下げ弓の力具合の違いを、上拍と下拍の力動性に対応させるので、流れるような場面や緩徐な楽章でも拍節感は失われない。たとえば「ガヴォット」の跳ねて着地するような運動性。そのステップを音楽が、上拍下拍と続く拍節で模倣する。それを弓の上げ下げに変換し、ピアノでその力動を表現する。“基礎体力”のしっかりとしたバッハ演奏に拍手。

初出:音楽現代 2018年7月号





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クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』

◇バルトルド・クイケン『楽譜から音楽へ ― バロック音楽の演奏法』道和書院, 2018年

 雅楽や聲明の公演を制作する木戸敏郎は、伝統と伝承の違いを次のように説明している。伝統とはものごとのうちに潜む思想を伝えること、伝承とはものごとの形そのものを守ること。辞書上の語義とは必ずしも一致していないが、古典芸能を現代の舞台で生かすプロデューサーとして木戸が、この違いに敏感であるのは納得のいくところだ。
 ベルギーのフルート奏者、バルトルド・クイケンもまた、こうした差異に眼差しを向ける音楽家のひとり。クイケンは1949年生まれ。1960年代後半に18世紀のフルートを手に入れたことが決定打となり、以後、17・18世紀の音楽を当時の楽器で演奏する活動を続ける。
 この書物はその過程で得た知見を、コンパクトにまとめたもの。全体は5章だてだが、多くの紙幅は第4章に割かれる。第4章は「楽譜とその解読、演奏」と題され、「強弱」、「装飾」、「即興」といった18の小項目に分けられている。
 一見、楽譜読解法と演奏法の具体的な講釈のようだが、実態は違う。それぞれの項目に潜むエッセンスを示そうとする点で、むしろ思想書に近い。木戸の言葉を借りれば伝承ではなく、伝統に目を向けた内容と言える。とはいえその書きぶりは簡潔で、軽やかな音楽随筆といった趣がある。
 クイケンの思想の中心は、編曲や楽器選択を「翻訳」にたとえて議論している部分にあろう。翻訳には翻訳の効果があることを指摘しつつ彼は、原典に直接、アプローチできるのであれば、そうするほうが作品の経験として望ましいとする。それを敷衍すると、ある音楽をよりよく演奏するには、その当時の楽器と演奏法とがふさわしいという結論になる。
 この書物は豊富なテーマを通して、この考えをさまざまな角度から補強する。この豊富なテーマと、そこに見られる繊細な議論が集まって、モザイク画のように思想を形作っていく点に、この著作のどこかスリリングな楽しさが表れている。


初出:モーストリー・クラシック 2018年6月号





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(5)

カンタータ・リング 10】「ミカエル祭 & 三位一体節後第10・14・27主日」▽2018年6月10日 20時 於ニコライ教会 ▽ ガーディナー指揮、モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 連続演奏会「カンタータ・リング」の掉尾を飾るのは、ガーディナー。4曲のカンタータを披露したが、その頂点は最後の《目ざめよとわれらに呼ばわる物見らの声》BWV140だ。
 花婿を待つ花嫁の喩えで有名な「マタイによる福音書第25章1〜13節」を朗読したのち、シャインの合唱曲「おまえの若くして娶った妻をよろこべ」(箴言第5章18b〜19節)を挟み、福音書の喩えを踏まえたBWV140を続ける。聖書の朗読で音楽の背景に横たわるエピソードを印象付け、そのエピソードに関連する17世紀作品で音楽史的な参照点を準備する。続けざまそこに「目ざめよと呼ばわる声」を響かせる。こうした流れによって聴き手の耳は、きちっとチューニングされる。その耳に、音楽家ひとりひとりの意欲のほとばしる演奏が次々と飛びこんでくる。メッセージ性の点でも音楽性の点でも、人の心を強く揺り動かす。
 作品に縁の深い演奏会場、内容の理解と音楽の把握とに必要な最低限の補助線、歴史研究に基づく楽器と演奏法、未解決の部分を埋める、演奏者の大胆な創意。古楽の粋とはこうした演奏会のことを言うのだろう。





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《ロ短調ミサ曲》私録 XVI【新訂版】

 当方がこれまで実演に接したバッハ《ロ短調ミサ》BWV232の番付を発表するコーナーの第16回。今回はライプツィヒ・バッハ音楽祭2018の千秋楽、ゴットホルト・シュヴァルツ指揮、トーマス合唱団&ベルリン古楽アカデミーの演奏会に足を運んだ(2018年6月17日, ライプツィヒ・トーマス教会)。
 シュヴァルツの指揮(音楽解釈)のダメさ加減に変わりはないが、あの「名演殺し」の指揮を前に、職人的手さばきを見せたベルリン古楽アカデミーには、なんというか、同情の念を禁じえない。
 相変わらずガーディナーの圧倒的第1位は揺らぐことはない。これはあくまで「私録」なので、ランキング内容についてのクレームはご容赦を(笑)

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第01位 ガーディナー, モンテヴェルディ合唱団&イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(ライプツィヒ・トーマス教会, 2010年)
第02位 ユンクヘーネル, カントゥス・ケルン(アルンシュタット・バッハ教会, 2011年)
第03位 ヘンゲルブロック, バルタザールノイマン合唱団&同アンサンブル(同トーマス教会, 2009年)
第04位 ビケット, イングリッシュ・コンサート(同トーマス教会, 2012年)
第05位 コープマン, アムステルダムバロック・オーケストラ&同合唱団(同トーマス教会, 2014年)
第06位 クリスティ, レザール・フロリサン(同トーマス教会, 2016年)
第07位 エリクソン, エリクソン室内合唱団&ドロットニングホルム・バロックオーケストラ(同トーマス教会, 2004年)
第08位 ブロムシュテット, ゲヴァントハウス合唱団&同管弦楽団(同トーマス教会, 2005年)
第09位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパンサントリーホール, 2015年)
第10位 ヤコプス, バルタザール・ノイマン合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2011年)
第11位 フェルトホーヴェン, オランダ・バッハ協会(東京オペラシティ, 2011年)
第12位 アーノンクール, シェーンベルク合唱団&コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン(サントリーホール, 2010年)
第13位 ブロムシュテット, ドレスデン室内合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団(同トーマス教会, 2017年)
第14位 ミンコフスキ, レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブル(ケーテン・ヤコブ教会, 2014年)
第15位 鈴木雅明, バッハ・コレギウム・ジャパンバーデン・バーデン祝祭劇場, 2012年)
第16位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(ケーテン・ヤコブ教会, 2010年)
第17位 ピノック, 紀尾井バッハコーア&紀尾井シンフォニエッタ東京(紀尾井ホール, 2015年)
第18位 ラーデマン, ゲッヒンガー・カントライ、バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト(同トーマス教会, 2015年)
第19位 ブリュッヘン, 栗友会合唱団&新日本フィルすみだトリフォニーホール, 2011年)
第20位 ノリントン, RIAS室内合唱団&ブレーメン・ドイツ室内管弦楽団(同トーマス教会, 2008年)
第21位 へレヴェッへ, コレギウム・ヴォカーレ・ヘント(同トーマス教会, 2003年)
第22位 NEW! シュヴァルツ, トーマス合唱団&ベルリン古楽アカデミー(同トーマス教会, 2018年)
第23位 ビラー, トーマス合唱団&ストラヴァガンツァ・ケルン(同トーマス教会, 2006年)
第24位 延原武春, テレマン室内合唱団&テレマン室内オーケストラ(いずみホール, 2011年)
第25位 シュミット=ガーデン, テルツ少年合唱団&コンツェルトケルン(同トーマス教会, 2007年)
第26位 ビラー, トーマス合唱団&フライブルクバロック・オーケストラ(同トーマス教会, 2013年)






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読響のチラシに出開帳!

来る9月下旬、シルヴァン・カンブルランの指揮のもと読売日本交響楽団がいよいよ、モーツァルトの歌劇《後宮からの誘拐》を上演!......という妄想をチラシの裏に書きました → こちら(PDF)


【当該演奏会の詳細】
第615回名曲シリーズ:9月21日(金)19時開演 サントリーホール
第106回みなとみらいホリデー名曲シリーズ:9月23日(日)14時開演 みなとみらいホール
モーツァルト後宮からの誘拐》序曲
モーツァルト ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491(ピアノ:アンデルシェフスキ)
ブルックナー 交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》WAB.104(1888年稿, コーストヴェット版)





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(4)

【PASSION 5】2018年6月15日20時▼ニコライ教会▼アダム・ヴィクトラ指揮、アンサンブル・イネガル

 ヤン・ディスマス・ゼレンカの受難オラトリオ《カルヴァリ山のイエス》を聴いた。これがとても面白い。ゼレンカはバッハが高く評価した音楽家のひとり。1679年にボヘミアで生まれ、1745年にドレスデンで没した。ザクセン選帝侯の宮廷に音楽家として仕えていた1735年、《カルヴァリ山のイエス》をドレスデンで初演した。
 第1に、この作品の台本はイタリア語だ。イタリア語で受難譚を語ると、その語彙は色恋を歌うオペラのアリアに限りなく近づく。第2に、イエスヨハネ(以上カウンターテノール)を始め母マリア、マグダラのマリア(以上ソプラノ)、母マリアの姪のマリア(アルト)にいたるまで、登場人物が全て女声。これは当時のオペラにありがちな配役だ。第3に、つくりは完全に芝居のないオペラ。
 こうした要素を総合すると、十字架上のイエスを囲むヨハネと女たちが、私はこんなにも主を愛している、いや私のほうがこれほど深くあの方を愛している、と超絶技巧で競い合うイタリア・オペラに見えてくる。これは作曲家の狙いそのものだったのではないかと想像する。というのも、受難劇であることから明らかなように、この作品は四旬節(受難前の斎戒期)に上演された。四旬節中は、娯楽に供するような派手な音曲は禁止。しかし、受難劇なら上演できる。そこで受難劇を、色恋沙汰を描くイタリア・オペラのように仕立てれば、四旬節にもかかわらず、実質的にオペラを楽しむことができる。そうした思惑が、こうした異形の受難オラトリオを生み出したのではないか。
 余談だが、シャリュモー(クラリネットの前身楽器)の甘い響きのオブリガートを、ここぞというところで入れてくるゼレンカの音響感覚もまた、興味深い。十字架上ではイエスが死にかけているのである。ドレスデンにもこの楽器の名手がいたのかもしれない。
 演奏は必ずしもA級ではなかったが、演奏者がおのおの、この興味深い音楽に精魂を傾けているらしく、独唱陣にしろ合唱にしろ、表現意欲をみなぎらせている。それが行き過ぎることもあれば、思わぬ表現の契機になることもある。なにより、この作品の興味深さを教えてくれた点に、賞賛を惜しむ理由はない。管弦楽の連中はいちおう、古楽器を手にしているが、ふだんはモダンを弾いているのだろうことが、奏法からうかがえる。ただし、モダン弾きとしてそうとうの手練れであるようだ。そういう音楽家が即席とはいえ古楽器を持つと、その勘所を即座に理解し、それを演奏(の隅々までとは言わないがその一部)に反映させることができる。この点も面白かった。
 そうそう、もうひとつ興味深いことを付け加えよう。このオラトリオでは序奏ののち、マリアが「シオンの娘たち」へと呼びかけるレチタティーヴォで幕を開ける。バッハの《マタイ受難曲》の冒頭合唱もまた「シオンの娘たち」への呼びかけで始まる。両者は「シオンの娘たち」をひとつの媒介に、オペラティックな受難曲という“名目”でつながりつつ、実際はきわめて対照的な体裁をとっている。前日の《マタイ》公演がすばらしければ、この対比もいっそう際立ったことだろう(前日の《マタイ》については下記の囲み記事を参照のこと)。
 このようによく練られたプログラム上の対比は、今年のバッハ音楽祭を特徴付ける、もっとも望ましい変化。これは新インテンダントのミヒャエル・マウルの手腕によるところが大きい。この体制が長く続くことを祈る。


。o O (バッハ音楽祭は16年連続16回目の全日程参加なのだが、その自分史上、最低最悪の《マタイ受難曲》を14日、トーマス教会で聴いたように思うが、多分、気のせいであろう。なんとなく、ブノワ・アレ指揮、ラ・シャペル・レナーヌの演奏のような気もするが、まあ「ひどい」と「マタイ受難曲」とは概念上、矛盾するので、「ひどいマタイ受難曲」などあり得ず、そうなるとこれは、やはり気のせいと思わざるをえない……)


写真:ライプツィヒ・ニコライ教会のオルガン演奏台(ポルシェ・デザイン)





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ライプツィヒ・バッハ音楽祭2018(3)

アンドラーシュ・シフのバッハ・ナイト】2018年6月13日20時▼ゲヴァントハウス大ホール

 ピアノ1台なのでメンデルスゾーンザール(小ホール)かと思ったら、大ホールのほう。《イタリア協奏曲》《フランス風序曲》《ゴルトベルク変奏曲》と続くプログラム。冒頭の《イタリア協奏曲》を弾き始めたシフ、少し様子がおかしい。独奏部と総奏部とがずれている。したいことは分かる。両者に時間的なずれを生じさせ、それぞれの声部を際立たせ、音楽的な緊張感や独奏の即興性を浮き彫りにする戦略。ただしこれは、精妙でインティメイトな操作なので、狭いサロンならまだしも、大きなコンサートホールで音楽的な身振りとして聞くのは難しい(命の宿る細部が把握できないので単なるズレに聞こえる)。
 ここからがシフのすごいところ。第2楽章以降、その方針を修正し、いったん《イタリア協奏曲》全曲を弾き終える。聴き手の拍手後、なんともう1度、同曲を演奏し始め、終楽章まで弾ききった!。今度は時間的ズレでなく、音色差と音量差と句読点(アーティキュレーション)で声部を描き分け、緊張感の行き来を彫琢。音楽のあるべき姿を取り戻したばかりか、場合によっては新たな魅力を引き出す契機にもなった。こうした軌道修正を即座に行える客観的な耳、誤りを改むるに憚ることのない心、その結果もたらされる修正の適切さ、その適切さが生む新たな価値。このピアニストの凄みである。
 こういう音楽家だから《ゴルトベルク変奏曲》はやはり面白い。音色差、音量差、子音(出ばなの雑音成分)、句読点(アーティキュレーション)といった手札を様々に組み合わせながら、アリアと30の変奏曲とを万華鏡のように見せていく。全体の構築感を含め、各変奏が面白さにあふれているのだが、とくに素晴らしいと思ったのは第10変奏のフゲッタ。同じ旋律を繰り返す、そのたびごとに音色と子音とが違う。だから同じセリフのはずなのに、そのたびごとに違う人物が現れて、その人の口調でそれを言っては次にバトンタッチしていくように感じられる。これは特殊な解釈ではなく、むしろこの変奏曲にありがちな表現だとは思うけれど、それをこれほどまでに鮮やかに、まるで目の前で見えるように演奏したのは、モダンピアノならばコロリオフかこのシフぐらい。見事としか言いようがない。音楽家としての器の大きさを見せつけられた。


写真:拍手に応えるシフ(2017年6月1日 於バーデン・バーデン祝祭劇場)






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